龍というべきなのだろうか。その言葉にまつわる高貴なイメージからは甚だ遠い容姿をしていた。
谷間に広がる岩河岸と切り立った崖の隙間を全速力で走る二人。今回ばかりは予てから山や川を歩く想定をしていた、流石にスカートにブラウスとドレスにお洒落なお帽子、という出で立ちではない……だからといってこんなバケモノに追いかけ回される想定なんかしていなかった。
な、何なのよ、あれっ!
わかんないけど、友達にはなれない気がする!
ヤツメウナギのように筒状の体をバッサリ断ったような円形の断面の内側の奥まで、鮫のような鏃状の歯が不規則にだがびっしりと敷き詰められている:それが頭部。円形の断面の縁が唇なのだとすれば、ぷっくりと膨れ上がった血色の肉と糸を引いて纏わり付く粘液が対象の凹凸を吸収して密着するだろう。骨格はともかく広義の顎がないではないらしく、円形のそれはちょうど半月状に折れ曲がり、蝦蟇口のように噛み合わせられるらしい。現に蓮子とメリーの背後では、そうして噛み砕かれた岩だの木だのの切れ端が半球形の肉の切れ目から飛び出している。
この先どんづまってる、あっちに渡らないと
ここ浅い、渡れる!
内壁面がギザ歯で埋め尽くされた口の内側には、頭部同様に先端が平たくなった別の肉が出たり引っ込んだりしている、それは舌だろうか。壁面を埋め尽くす剣歯と違い―それが歯であれば―臼歯のような突起が同心円状に規則的に並んでいた:まるでシールドマシンの回転歯。蓮子あるいはメリーが走り抜けた地点に、ずん、と龍が円筒状の頭部を岩床に叩きつけると、たちまちに工事現場のような掘削音が響き、再び頭をもたげたときには、吸い付くとも噛み付くとも言える特徴的な口撃で妙に整った円穴が現れる。
なにが〝鬼の足跡〟よ、ちょっとばかり過激なキスマーク!
ほらメリー、その剣の出番よ、やっつけて!
メリーが拾ったという刀は、本当にただその辺に落ちていたのを拾ったというだけのものだ。山中の道程でメリーが踏ん付けて気付いた。錆付きまくっていて刀身は鞘から抜けない。反りのない直線的な形。恐らくまだ人がいた頃に誰かが落とした玩具の剣かせいぜい模造刀かだろうと納得したが、メリーはそれを土産に持って帰ると言い出したのだ。
むりよお!これはただのお土産!そもそも鞘から抜けだってしないのよ!
じゃあ後は祈るだけね
かの体はほとんど蛇体、蛇腹に敷き詰められた横長の鱗が器用に地面に食い付き、滑るらしい。腹にはそうした鱗が生えているがそれ以外は鮫肌だ、水気を帯びて潤い照り返す肌にはしかしザラついた質感を見て取れる。これがウナギではなく龍だといえる根拠は、長い体の中ほどに生えている一対の翼の存在だった。質感は魚のヒレのよう、だがトビウオのそれよりはコウモリのように手指を張った先に備わっている。形こそ翼だがそのサイズは小さく、空を飛べるようには見えない。現に二人を追うのに空を飛ぶことはなく、蛇のように地面を這っていた。
ま、町までどれくらい?
走り続けられる距離じゃないわ。そもそもあれもう廃墟よ、助けを求められる場所じゃない
せめて車にたどり着ければ、ワンチャン……
あの大蛇、舗装道路だともっと早く動けそうね
やだー!
ここに来るのに通り抜けてきた町は旧くアイヌの居住地遺跡や祭儀場跡を残し、それをして神居古潭を名乗って観光客を呼び込みそこそこの規模であったが、人間社会の高度集積都市化に伴って自治体としては廃止されている。今は人もなく、ただ道路族の利権のためにギリギリ舗装された道が通っているだけ、まさに〝将来の遺跡〟だった。
それでも、二人の乗ってきた内燃機関車はその付近に停めてある。整備工場に持っていってもほとんど対応してもらえない骨董品の自動車でも、逃げるのなら自分の足よりはよほど頼もしい。
急に川が増水始めたから慌てて川から退避したら、今度はあんなバケモノ、なんでこんな目に遭わなきゃならないのよぉ!!
愚かなニンゲンが、わざわざ見物に来たから
ご、ご尤もぉ
蓮子の内燃機関車で、白川郷から北上すること約4時間。目的地は牛に引かれたわけでもない善光寺参りだった。善光寺に詣で、白川郷で一夜を過ごす;強行軍のようだがエンジン音を転がすことに病的な執着を持つ蓮子にとって4時間も5時間も大した苦ではないらしいが、それ以外に明確な目的がある。
善光寺には形式ばった寺参りを済ませ、彼女達の本当の目的地はその帰路にあった。
水内という地名があって、今言うよりももっと広大な地域を指したと言われてる。善光寺もかつては水内郡にあったと言われていて、今で言う上水内や下水内では収まらない範囲までが〝水内〟と呼ばれていたことになるわね。でも、本質的に〝水内〟をただの地名として捉えるのは性急というものだわ
いや地名でしょう?
ミノチはミナシと同一とも言われている
メリーが眉毛に唾を塗りながら、半ば顰めた渋いで蓮子の方を見る。秘封倶楽部の活動は常に二人で活動する;それは指示があって二人とも厭々の旅路になることもあれば、完全に自主的で実質デートになることもあるし……その半々のときもある。
奇妙な〝神託〟に基づいていて、蓮子は乗り気、メリーは乗り気でない;今回はそんな旅路だった。
ミナシって、帰りに寄るっていう水無神社の?
そう。水無神社は祭神が不詳なのに、飛騨一ノ宮として崇敬を受けている。草薙剣を退避させる場所として選ばれるくらいには中央からの信頼もある。今は水無大神という由来のわからない神様とともに大穴牟遅を祀っているんだけど、水無大神の正体、大穴牟遅よりも歴史がありそうじゃない?
ふうん。ま、坂口安吾も〝飛騨には歴史から抹殺された王朝が存在した〟なんて言っているしね
明らかに面倒くさそうなメリーは、旅程にあった白川郷の合掌造りの宿と飛騨牛ステーキに釣られる形でやってきた;それ以外には気乗りしていない様子ではあったが、しかしそれでも興味を同じくする者同士、蓮子の言わんとすることへは打てば響く。
かつて実際に王朝があったのかもしれないし、水無神社の真の祭神は両面宿儺だったかもしれない。大穴牟遅の示す通り出雲系氏族の誰かだったかもしれない。それはともかくとして、重要なのは、水無神社の祭神は今日、水神になっていることよ
〝水無は水成しの意味で、水主のことである〟神社の由緒ね。でもそれは水内とか水無の〝水〟の文字からそうなっただけって感じがするけど
水無神社の水神的神格を便宜的に水主神とする。一般的に大穴牟遅は水神ではない。美具久留御魂くらいかしら。だから大穴牟遅と水主神は別物。そして古来の土着神である水内神とも別物。
〝オオナムチ〟〝ミヌシ〟〝ミノチ〟の三柱が、別の顔こそしているけど境界を曖昧にした状態で祀られているってことね。わかった、この神社では大穴牟遅は水神化されている、もしくは将来的に水神になるって言いたいんでしょう
ご明察。私は今日日〝水の神〟とされている多くの神様を、疑わしく思っているわ。雨、霧、露に、川、沼、海、それに井戸、水田:〝水〟といってもその実体は様々よ、それらに神性を見出すこと自体に疑問はないのだけど
純粋ではないかもしれない
収斂進化に影響する個別の環境を不純要素だと言うなら、そうね。水神っていうのは他の神様や、他の人間を、少なからず取り込んだマルチブリッドの姿だと思う。水神は太古から続く自然神であると同時に常に〝今の〟人間の生活に密着もしている分、懐が深すぎるのよ。常に変容し続けていると思った方がいいわ。水神は、自然の姿や人間の営みそれぞれの重みに依って混じり合ったり収斂したものだわ:純粋さなんてありえない。民族や文化も同じね
水神とは多くを喰らい、姿を変えて、そして続いていく。姿だけでなく性質も蛇そのものだね。そういえばミノチとミヅチって似てるね
着いたわよ:蓮子が化石燃料式内燃機関の轟音を止めたのは高集積水力発電施設を望む観光用の展望橋。見えるのは、まるで封じた神を畏れ監視を続けるが如く常夜灯と監視ライトに照らし出されながら山間に切り立つ、特殊樹脂の大壁。その傍に立つ極彩色の方形不夜城は、神を名乗りたい人間の虚勢のように煌いている。山にせよ人にせよ、神の力の源を、ここに見出しているのだ:川。
今回私達がお参りに来た神様は、これよ
コンクリートと樹脂で雁字搦めにされ、効率の名の下に不自然な巨大化統合外科手術を施されたこの歪な人造神は、ここから遠く離れた場所にある人間の楽園を密かに支えている。楽園の人間たちは、この神の憐れな姿を知っているのだろうか。
第四水内ダム、そういう意味ではすごく示唆に富んでいると思わない?この九重にも備わった特殊耐性炭素樹脂の隔壁と太古から全く変わらない〝水〟が、今はエネルギーの源よ。
第四にまでインクリメントされているのは、科学の力を以てしても激甚な気候変動と宿命的な地殻変動によって状況が変化し続ける自然を制御できなかった歴史を背景に持つ。それでも人間は太古から何も変わらず都市に密集し、川に神を求め、その力を掌中に収めんとする。機械化された神話の姿が、ここにあった。谷間に神を封じた樹脂製の棺、金属線で抽出される神の力。神への恐れを現す監視塔・モニター類と無数の計器、光。水の神の機嫌を大空に占う祭壇。だがここにはもう祈りはない。
示唆には富んでるけど、水無神社からは遠すぎ
水内神の影響力は当時この辺まで及んでいたんじゃない?越国の括りでいえば不思議はないわ
それが坂口安吾の云う〝失われた飛騨王朝〟だっていうの?冗談も大概に……
面白そうじゃん
メリーは頭でも痛いかのように額を抑えてから、天を仰いだ。
蛇とも鬼ともウナギともつかないバケモノはその巨体故に木々に遮られ、蓮子とメリーはその小ささ故に木の根や低木に阻まれる。絡みつく障害物に消耗が激しいのはしかし、二人の方だ。張り出した木の根に躓き転んでも痛いと蹲っている余裕はない。足を捻りかけても筋を案じて減速する暇もない。葉や枝が肌を裂いても、意思まで破かれるわけには行かなかった;後には極大の死と恐怖が迫っている。
いつもいつもこんなのばっか!私まだ学生よ、命をかけたお仕事なんて年じゃないわ!
学生も職業人でなきゃいけないなんて、世知辛い時代よねー……ぎゃっ!
転んだメリーを起き上がらせるために手を引こうとした蓮子に「いい」とだけ言ったメリー、全身で起き上がりながら顎だけで〝さっさといけ〟と示す。手伝われる方がリカバリに手間取る、それに増えるリスクに見合わない;との判断だった。二人の夢探しでは、こんなことも日常茶飯事だ。
そろそろハリウッドからスカウトが来てもいいと思うんだけどなぁ!こないだのジュウドノ様ビームもなかなかヤバかったよね?!
ええ、でもきっと、最近ってこういう映画流行んないのよ、そうじゃないと納得行かない!
ぎりぎりのバランスを取りながら走る蓮子が、あれみて、と声に出す代わりに岩壁の一点を指さす。よく見ると青白い牙を立てた岩の合間に、わずかばかりに顔を覗かせる穴が見える;つまりそこに隠れようというのだ。幸い鬱蒼とした木立に視線は遮られがちで、二人の位置からバケモノの姿を垣間見こそできるが長大な全容は窺い知れない、バケモノから二人を見ようとしたときも同じだろう。あの穴に入る瞬間さえ見られなければ、確かに絶好の隠れ場所のように思えた。何より、走って逃げ続けようにももう脚はストライキ起こしており、メリーには既に蓮子の提案を拒否する余裕はなかった。提案した蓮子、それにメリーも是非無しにその穴へ向かう;もはや願っていたのはその穴が隠れるのに適切でありますように、ではなく、入る瞬間を見られていませんように、だった。
ええい、ままよっ!
どうにかなれーっ!
吸い込まれるように二人が逃げ込んだ穴は、洞窟と呼ぶにも些か狭い、だが四つん這いになれば人一人くらいならなんとか通り抜けられる程度の穴。二人共躊躇なく膝を折りその穴に頭から滑り込んだ。
ひょうひょうと入り口から吹き込む風が奇妙な鳴き声を上げている;UMAの鳴き声と言われても不思議じゃないが、たったさっきまで自分達を追い回していた蛇体のバケモノに比べればまだペットにしたっていいレベルに違いなかった。
ど、どう?
息はできる
……上等。
行けるところまでは行く:申し合わせるまでもなく二人はそのつもりであったが、少し進んだところで不意に、狭かった洞穴が立ち上がるに十分な高さへ変化した。二、三人程度並んで歩ける幅になる。
広くなったことを互いに認め合うように目配せした辺りで、入り口からの光量が衰え元から不安定な足元がいよいよ見えなくなった。「明かりあるよ」と蓮子がペン型のライトを灯すと、その穴は二人が想像していた以上に(だがそうでなくてはバケモノから隠れるには不十分だっただろう)深いことがわかる。蓮子が奥の方へ光を投げても、ポッカリと口を開けた闇が睨み返してくるだけだ。
隠れるにはちょうど良さそうな穴だったね、なんとか逃げ切れたかな
入っているところを見つからなければ隠れ穴、もし見つかってたらただの墓穴ってところね?
そうなったらもうホントにこれで戦うしかない……でも、あいつのサイズじゃあ、ここには入ってこれないんじゃない?
アレが固形物ならね
はあ?
川の悪霊、私の見立てではね。全身で流れ込んでくるかも
メリーはさっきのバケモノが液体になって洞穴に流れ込んでくる映像を頭の中に描き出し、あまりの不気味さに身震いしてその映像を停止した。
川の悪霊とは流石にファンタジックだ。だがバケモノの時点ですでにファンタジックでもある。受け入れがたい事実を空想によって飲み下し理解を先送りして生き延びるのもまた、二人の間ではよくある部活動の一環だった。
ああもう、こんなのが〝よくある部活動〟で堪るかってのよ!
いきなりキレないで
ほんとにインディー・ジョーンズかトゥーム・レイダーよ、ふざけてる。
だったらその刀を持ってくるんじゃないわよ
だって別に安置されてたとかじゃないじゃん、その辺に落ちてたんだよ?それに、洞爺湖のお土産っていったら木刀でしょ?
ここ洞爺湖じゃないってば
銀幕デビューするならせめて、バケモノから逃げるんじゃなくて、カバンの中に詰め込めるようにならなきゃだめかなあ
俳優ってすごいのねえ
さっきまで背後に迫っていた殺気は、今はない。振り切れたのかもしれないが、だからといって入り口に引き返す気はまだ起こらなかった。そのままなんとなく奥へ進んでいく蓮子に、同じくなんとなくついていくメリー。背後も気にするように振り返りつつ忙しなく視線を踊らせキョロつきながら歩く彼女は、どかどか進む蓮子へ、ふと思ったことを投げる。
なんかこれ、古墳っぽくない?
アイヌに古墳の風習はないでしょ。普通に土葬で墳墓は作らないし横穴墓でもない
墓でなくても、横穴住居遺跡は多いらしいけど
それにしては変よ。これ、少しずつ下ってない?壁も妙に整ってるし……なんか羨道みたい
確かに自然洞穴にしては、入口付近はともかくこの地点の壁は、整いすぎている。奥に行くほど足元は平坦に、壁もまっすぐ切り立つように立ち、天井までもが凹凸を失って平面に近付いてきていた。
防空壕もこの辺にはないだろうし、古いトンネルが埋まった後とか
天井がアーチならね。アンダーパスにしたってこんな場所、上に道路も線路もないよ
ドーロ族が暴れた跡じゃなきゃいいけど
だったら舗装くらいされているわ
いよいよ地下空間は、入り口頃の荒ぶった姿をすっかり失って今や方正に整った壁面を見せている。コンクリートなどではなく、あくまで石山を直線的に刳り貫いたものだ。いつのものにせよ、これは人工物だ。
下っている構造であれば雨水や地下水が溜まっていても不思議ではないのだが、その形跡もない。ひんやりとした空気はカラッと乾いており、洞窟内であることを感じさせなかった。カビが繁茂している様子も、洞穴生物の気配も多くない。妙に生命の気配がない空間になっているのも人工物の印象を強くしている。
あまり奥に行かない方が……
警戒心を強めるメリーが注意を促す。蓮子はどうにも好奇心の方が勝ったようで、メリーの言葉を聞きながらもああだううだ言いながら歩みを進めていった。相変わらず僅かな苔やカビ、多少の迷性生物以外に独自の相は感じられない一方で、人工的な様相は強まっていく。洞窟の示す不思議な姿に、蓮子が好奇心を高めているのも、確かに無理からぬことだった。それでももし生物の姿が少ない理由が、何らかの毒物の滞留であれば危険極まりない:例えば火山性のガスや、重金属を含んだ水なんか。
なんか怪しいわよこの穴、毒物でもあるのかも
えっ
いくらなんでも生き物の気配が少なすぎるもの。毒性のガスが溜まってるとか、局所的に地下放射線量がバカ高いとか
その〝えっ〟じゃないよ、あれ、何?
ペンライトの先にわずかに見える壁の一角が、妙に規則的な欠損を見せていた。目を凝らすとそれは、周囲の岩石質とは違う質感をしており、近付いてみればそれが岩ではなくもっと別のものだとわかった。
巻物?
数峰にもなる巻物の山が突然現れた。木牘の山が、まるでそれ自体がこの洞窟の構造と思えるほど沢山に築かれている。人工物じみた壁面や天井に興味津々の蓮子だったが、流石にそれが明らかな人工物となるとある意味で興味のベクトルが安定したらしい。はあ、と落胆とも安堵ともない溜息を吐くようにしてからその山の一つに近付き手に取ろうとして、手を止める。
これ……相当古いわね、近所の中学生がビニ本を持ち込んでオナってたわけじゃなさそう
きょうびビニ本なんて言わないからね?
こうして見渡せば、積まれた木牘の数は驚くほどに多い;それこそちょっと持ち込んだというより、意図的にここに溜め込んだか、納めたかという数。そしてそのいずれも、その予想に沿うように、規則正しく積んであった。
木牘の山にライトを当て、ふっと息を吹きかけて降り積もった埃や砂を飛ばす。顕になった表面は時間こそ感じさせるが綺麗なまま整っている。
日本語ではあるんだろうけど、少なくとも現代語ではないわね。他も全部こんな感じの文字だわ。かなり古い書物が持ち込まれてるみたい。この場では読めそうにないや
それにしても相当な数だ。子供の自慰隠れ家……ではないとしても、ちょっと持ち込んだ程度のものではない。百は優に超えようか、時代劇や大河ドラマで権力者の屋敷の書庫の棚に収まった沢山の巻物とか、そういうときに見かけそうな数だ。だがどの簡牘もかなりの年数が経っているようで、そっと触れて扱う分に開くことはできるものの、中の文字は達筆すぎて二人には全く読めない。
歴史的なくらい古い本が放置されている、にしては状態がいいとも言えるけど。この空間結構広いわね、まだ奥があるの
北海道は寒冷だから浸水さえしなければもしかしたら長持ちするのかな、保存状態が妙に良い理由はわからないわね。そもそも実際にはそんなに古いものじゃないのかも知れないし
見て、蓮子!
メリーの呼び声に振り返った蓮子、人工的な不自然さを伴う岩壁を越えた先に見たのは、人型の何かであった:横たわっている。干からびてシワの寄った細く小さな姿に縮んではいるが、明らかに人間の形をしている。この独特の死体の表面。
……即身仏?
いいえ意図的に伸展葬にしてある、即身仏ではないわね。これ、葬法としてのミイラだわ
ここ樺太アイヌの文化圏じゃないよね
樺太アイヌのミイラ葬文化が、一旦北海道を経由して北上したアウレト族のそれだとすれば、ミイラ葬が行われた可能性は北海道日本海側全般で否定しきれないわ。アイヌと生死観や神のあり方が相容れず残らなかっただけかも。あるいはこうやって
秘された、か
ミイラの周囲は小石を敷き詰めたような地面で枠線を引いてある。ミイラは一体のようで、小石の床で区切った方形の外側には大小様々の刀や漆器らしい器が置かれている;副葬品だろう。置かれていた書物も副葬品の一つかもしれない。ただ、大量だ。
でもこれが墓なら、おかしいわ、副葬品に書物があるのよ?アイヌには文字がない筈だわ
アイヌに文字がない理由、知っている?
口伝がメインだったから……?
教科書的な回答ね
やーないいかた
ごめんごめん、私もそう思ってるよ。でも面白い話があるのよ
怪しい話、でしょ
そのふたつは同義ね
メリーは、積まれてた本をしげしげと何冊あるのか数えようとしている蓮子へ、〝曲解〟を口にした。
ヨシツネが根こそぎ奪ったからよ
ヨシツネって、源義経?
それ以外に誰がいるのよ
蓮子のセフレにそういう人でもいるのかと
んなわけないでしょう
副葬品らしき品一つ一つに直接触れることなく小さく転がしてみたりしげしげと覗き込んだりしながら、得意げに胸を張って持論のヨシツネ異聞をひけらかし始める。
アイヌの間で、ヨシツネは想像以上に民話として浸透している。平安・鎌倉なんて新しい時代の人物なのにまことしやかに神代と結合している。面白いのは、善人としてばかり描かれていないってことね;特に女癖が悪かったようね。ヨシツネが酋長の娘と一緒に、書物をごっそり奪って逃げたなんて話があるの。そのせいで文字が失われたなんて逸話がある
ヨシツネが書物を根こそぎ奪い尽くしたからアイヌから文字が消え去ったってこと?
文字を盗み取るなんて、なんか古い神話でトリックスターがやりそうな話よね。元々文字がなかった擦文人に和人が幾らかの文字を流入させて、そこでアイヌに文字という概念が生まれたとするわ。まだ限られた人しか読み書きできなかったのかも知れないし、流入した書物がその全てだったでしょう。でもその矢先、ヨシツネが村の書物を簒奪した。理由はわからないけどね。結果、蓄積されかけていた文字の知識の拠り所が一度に失われたとしたら
断面が違うとはいえ〝ヨシツネが文字を奪った〟なんて言い方もできるか。それを、この副葬品としての書物が裏付けているって?
人間に知恵や文化を授ける神がトリックスターでもある神話なんて数知れないわ。トリックスターって、どの神話でも善神とは限らない
突然目の前に現れたミイラに、ぼんやりとファンタジックな神話妄想を重ねてみる二人。歴史と神話の薄布が折り畳まれて重なり、離れ地点が一本の糸で縫い締められると、それはまるで本当に隣接しているみたいな錯覚に陥る。この糸を玉止めしてしまえば、これは本当に接合してしまうのでは?そんな引力への落下を、理性の命綱を切らぬように楽しむのが、秘封倶楽部だ。勿論依頼主の要望も満たさねばならないが。
じゃあこれ、ヨシツネのミイラってこと
流石にそうじゃないと思うけど、当時の誰か偉い人かもね、ちゃんと墓所を設けて埋葬されているってことだし。和人への反感かあるいはその逆の思想が強い権力者が、周囲の村々から根こそぎ内地由来の本を接収していたのかも。その話がヨシツネの女たらし逸話と結びついたとか
それじゃヨシツネはトリックスターどころかまるで悪神じゃないの
人間に知恵を与えれば善神ってわけじゃないわ、サタンが最たる例でしょ;トリックスターは災いと恵みの両方を人間にもたらす
それって自然神一般じゃん
面白い観点ね;トリックスター的神格は、その神話体系の中で、その地方にいたより古いアニミズム的神格の血脈を引き込んだものってことね
そこまでは言ってないって
いいじゃん、可能性のひとつとしての陰謀論だね:メリーがけらけらと笑いながら言う。本気でそう思っているのか、あるいはどこまで本気なのか、いつもわからない。それはメリーから見た蓮子もそうであるが一方で、蓮子から見たメリーもそうだった。ただのニンゲンであるはずの二人が持つ奇妙な能力について、互いに理解はできていない;ただ認知して……信頼しているだけだ。二人はいつも相手を疑い、手探りしながら、でも半身のように結合している。
副葬品の品定めを諦めた蓮子は諦めたように肩を竦めて立ち上がった。
やっぱヤバいわ、ここ。私達みたいなただの好事家じゃ手に余る。メリーの言う通り、早く出たほうがよさそうね。とびきり貴重な遺跡を踏み抜いたかも。
この書物が本当に当時のものなら、下手をすると通説をひっくり返す記述があるかもしれないわね。古墳ではないけど、似たようなもの
ああ、これじゃあ本当にトゥーム・レイダーよ
善は急げ:蓮子が踵を返す。バケモノが入り口付近で暴れている気配がとりあえずもうないのは、二人にもとうにわかっていた。メリーにもそれに反対する理由はない。
じゃあさっさと引揚げよ、もう公権力のお世話になるのは御免だもの。
バケモノより結界省の方がよっぽどおっかない、なるほどその通りだね
まさか本当に墓穴だったとは、などと言いながら穴を這い出す二人。外からは追いかけ回されていたときのような破滅的な音は聞こえない。中に奇妙な発見を得た上に、蛇をやり過ごせたらしい。
まったく、一時はどうなるかと思ったわ
とってつけたおまけみたいに妙なものまで見つけてしまったけれど、残念、私達では手に負えないわね
きょろきょろと周囲を見回し耳をすますが、何も見えないし小川の流れる音と風が鳴らす草木の音、鳥の声以外には何も聞こえない。蛇が暴れ通った川こそ一時的な増水と破壊の爪痕が残っているが、それ以外には平和な谷川の風景に戻っている。
……あれは、上流に帰ったかな
さっさと戻りましょ、とりあえず車のとこまで
川に関わるヤツっぽかったし水辺は避けよう
蓮子が広げたのはアナクロな紙の地図、到底地形情報とは思えない情報レイヤーが、幾重にも重ねられていた。紙媒体は電子媒体と違って規格外の情報を容易に付与できる;印刷紙面にペンで書き込み、付箋でメモを書き足して、写真を貼り付け、それを別の地図と一緒に保管して並べてみることができる、その無秩序な情報集積を「整理」と言い張れることが、彼女達の定形外な思索と活動には適していた。文字通り分厚く太った紙の地図のどこから蓮子は目的の情報を得たのかメリーにはわからない。だが持ち主はすんなりと、渓谷をもう少し下ったところに脇に入って山道に戻るルートを見つけたようだ;既に引かれている色線の幾つかを、途中途中で乗り換えるように指でなぞって、旧神居古潭市街への帰途を結い上げた。
こっちから山に戻ろう。そんでこのルートを辿って神居古潭まで
蛇神に追いかけられて穴に駆け込んだときの疲労感もどこへやら。問題解決と帰還の筋道が立ったことで二人の足取りは軽やかだ。野外フィールドワークに慣れた二人の元の姿に戻ったとも言える。そうは言っても巻き込まれたコトの大きさは、振り返るに話のネタの獲れ高としては大漁だった。
伊弉諾物質放射体は見つからなかったわね
想定外よ、あんな状況で探せるわけがない。もしかしたらあの蛇の腹の中にでもあるのかも
それならうちのも手出しはできないでしょ
幸か不幸か、結果オーライってところかしら。匿名で結界省にタレ込んで探させようか
それでもいいかもね……
と、先行する蓮子が、メリーを振り返ったところで表情を固くする。帰途について明るかった表情がみるみる青褪めていった。
ヤバ……
ん?
恐怖を取り戻してしまった蓮子の視線は、メリーを通り過ぎてその背後、そしてより高い方へと向けられている。
まだ、いた
蓮子の視線に促されるように振り返ったメリーが見たのは、深い木々の間から首を持ち上げて二人を見下ろす、さっきのキモ蛇の姿。
どんだけ執念深いのよ。あんな長い時間物理顕現してたら、人目につくでしょうに
人が極端に都市部に集積されて地方に人がいなくなった結果ね、山も川も神の下に戻った。
ここには結界は見えない、そもそももう繋ぎ目ですらないってことか
神界っていうか、ああいう存在が無警戒に往来する範囲が広くなってるんでしょ。都市でも人通りが少ないだけで治安が悪化するって言うし
神様を不良少年みたいに言うのやめな?
人と見つけりゃ取って喰おうとするなんて、あんなの不良よ、不良の神様
まあ、それを悪神っていうのかもだけど。それにしても……どうする?
頭部に備わっている眼のようなものが本当に眼なのかはわからないが、きっとこちらを見ているような仕草で蛇はあの奇妙な口を開いた。円形の内側にずらり並んだ歯、凹凸をびっしり並べた平たい舌。
……完全にこっちに気づいてるよね
言葉はなく、申し合わせてもいない中で、二人同時に全力疾走で元来た穴の方へ駆け込もうとする。戦術核云々はともかく、一旦穴の中に戻るしかないことに関しては確かに二人の暗黙の了解となった。
で、さっき言ってたみたいに、液体化して流れ込んできたらどうするの!?
もうその剣で戦って!
川沿いを逃げてきたとき同様、躓き転び、あちこちに体をぶつけつつ走る。それは確かに墓穴だったが、自分達用の墓ではないことははっきりした。
……と、そこでメリーが声を上げる。後ろにはウナギドラゴンが怒涛を打って迫っているというのに、ぽかんとした顔で突然立ち止まったのだ。あの刀、どこやったっけ
はあ!?いいよそんなことどうでも!またそこらに落としたなら文字通り元鞘だわ。いいじゃないの、どうせ錆びて鞘から抜けなかったんだから
でも
デモもストライキもないから、早く―
あと少しなんだから、とどうでもいいことに呆然としているメリーの腕を抜く勢いで引っ張って、件の墓穴の中に向かう。
蛇龍は後方300メートルほど、穴まではあと50メートル。だが地形デバフのあるニンゲンでは地形デバフ低減の巨体から逃げ切れるか怪しい。
まずい、まずいまずいまずい……!
声を出す空気も肺が惜しむ。心臓ポンプは限界を打ちもはや肋骨を窮屈に感じていた。喉はどうしてこんなに細いのか、切り裂いてもっと沢山の呼気を取り込みたいのに。もつれる脚をどうにかほどきながら前に出し続ける。後のメリーをちら見ると流石に刀のことは忘れたらしい、蓮子と同じように必死の形相で走っている。
あと40メートル、その木の陰に穴はある。そこに入れれば生き残れる可能性がつながる。この先まだ長い人生を40メートルで割ったら、一歩で何年分だろうなんてしょうもないことを考えてしまう。
あと30メートル。入り口を塞ぐ木を最短ですり抜けて穴に滑り込むにはどのルートがいいか、こんな時のシミュレーションには数字なんてクソの役にも立たない。数秒先のことを算出するのに紙と鉛筆と1分もかかるなんてアホね、なんて、くだらない問答をしながら、向かって右から潜り込むことに賭ける。根拠はない、何かが選ばせたというのならその不条理を甘んじて受ける。「右から!」となけなしの空気を絞り出して後ろのメリーに伝える蓮子。
あと20メートル。もう脚に祈るだけ。足首ってなんであんなに関節弱っちいの?歩いたり走ったりするのと全然噛み合ってないじゃん、全然デザイン能力ないね神様。だったら祈るならこの脚だ、祈ろうにもこんな時には神様なんて役に立たない。ちがった、後ろにいるのが神様なんだった。
あと10メートル。メリーは、目の前の蓮子が頭にハゲができるんじゃないかってくらいに頭を太い木の枝に擦るのを見た。だけど声一つ上がらない、それどころじゃないから。首から上が無くなるとしても、首から下だけでもあの穴に入り込めれば希望はある……いや無いわ!
蓮子の賭け通り、木を右からすり抜けて墓穴の入り口へ転がり込もうとした二人は、しかしそこで想像だにしていないものに行く手を阻まれる。
……はぁっ!?
人型をした何かが、立ちはだかっていたのだ。こんなところに自分たち以外の人間がいるわけがない。いるとすればそれは、ただ姿形が人間と同じだけで、迫ってきているアレと同質のものに決まっていた。
ば、万策尽きたー!
と叫びながら、前方を塞がれた蓮子が全力疾走の慣性を洞穴内へ逃がすことが出来ず、吹っ飛ぶくらいの勢いで転倒した。草にバウンドし、石にどこかを打ち付けて、別の木に衝突するように受け止められて停止する。メリーも似たような状態、ただ彼女を受け止めたのは木でなく……蓮子の腹部だった。
おぐっごぇっ、自分がつぶしてしまったかもしれない蓮子の口から嫌な声が聞こえたが、メリーには彼女の様子を見る余裕はない。
何者……
メリーの視線は、墓穴の前に立ちはだかる人型の何かに吸い込まれる。蓮子は意識こそあるが、腹部を強く圧迫されてえづきながら、のたうつように這って穴の方へ向かう。そうして見上げたところに人型のその存在を改めて認識した。
二人それぞれ違う状況で見たその人型に、だが同じ感想を持つ。それは二人でなくても同じ感想を持っただろう、あまりにも特徴的な姿をしていた。
吹返に見事な笹竜胆があしらわれ何より天を衝く立物が雄々しい兜、細長く薄い板金を幾重にもそして何幅にも茜色の紐で繋ぎ合わせた大鎧。それと。
えーっと、もしかして本当に
余りにも場違いな鎧武者が腰に差していたのは、メリーが拾って、そしてなくした刀だった。
突然現れた鎧武者は、ひっくり返っている蓮子とメリーを一瞥して、迫る蛇龍を前に一歩踏み出した。口元こそ頬当に隠れて見えないが、ちらりと蓮子を見た武士の眼に邪悪さは一つもない。
あ、その刀……
世に仇為すのが悪、それを註するが正義。有事には再びその天地が返る。
侍の声は存外に瑞々しかった、子供とまでは行かないが蓮子やメリーと近そうな若い声色。疲労、それに転倒と殴打で余裕を失っている二人は彼に敵意がないことを信じる以外に選択肢はなかった。失速した足腰で洞窟の入口に向かう頃には蛇神のターゲットは正体不明の鎧武者に切り替わっていた。逃げるでなくそれどころか一歩を踏み込んだ侍を大蛇は速度を殺して敵性認識したようだ。
その刀、錆びてて抜けな―
メリーが忠告するが、侍は柄を握り締める。拾ったとき鞘から抜こうとしたメリーはそれがすっかり錆びて抜けないことを確認していたし、蓮子も錆びた刀身がすっかり鞘の内側と噛み合って抜ける気配がないことを知っていた。
だというのに、その侍の手の中で、滑るように刀身を現したのだ。
私達じゃ腕力足りなかったのかな
そーじゃないでしょどう見ても。ろくでもないもの拾ったのね……
拾ってたことをもっと感謝してほしいわ!
現れた抜身は、奇妙な色合いをしていた。白い照り返しを埋め尽くすように、青緑の表面が鈍い輝きを宿している。錆に蝕まれてすっかり黒や茶に染まっているか、仮に錆びていなかったとしても全身が白い金属光沢で包まれているのを想像していたというのに、二人共その刀身に意表を突かれる。
薄緑色……?
なに、あれ
目の前の鎧武者が構えている刀はメリーが拾った錆びて抜けないボロ刀でも、玩具の剣などでもなく、薄緑色に煌めく神々しい上古刀であった。日本刀の拵に似て非なる奇妙な外見も、そうであれば納得がいく。だが、何故メリーが拾うような場所に落ちていたのかはわからなかった。そしてその刀身の緑色の理由もわからない。青黒い青銅とも違う薄緑色のそれは、一体何の輝きであろう。
ともかく。その緑光に威圧されるように巨蛇は完全に前進を止める。侍の前でとぐろを巻き、もたげた首を高く上げて侍の頭上から奇妙なシールド顎と舌を見せては威嚇するように揺れている。
畢竟、私は今、正義……
鎧武者の科白が一体何を意味しているのか二人にはわからなかったが、蛇、侍、二人、穴の位置関係と彼の振る舞いを考えるに、一旦は自分達に敵意を向けているわけではないらしいことは察する。
二人は鎧武者の背後から洞窟の入口に潜り込んで身を寄せ合う。敵意は感じないが万が一、それでもあの鎧武者が光の刃を自分たちに向けるようなことがあればと、蓮子はメリーを自分の後ろに下げて〝アレ〟の準備を促す。
一方、蓮子には何か思い当たる節があるらしい。彼女なりの推理を口にし始めた。
なるほど……あのバケモノはきっと川の悪霊神。不自然な川の増水に追われて引き返してる内にあれに見つかったのも説明がつく、私達がみだりに結界暴きなんかしてたものだから
説明?つかないけど?
あの悪神を討ち倒すのは英雄神オキクㇽミだとか、サマイクㇽということになってる
あれどう見ても内地の武士なんですけど、緑色に光る魔法の剣を持ってること以外
魔法かどうかはわからないけどね
それまでの追跡劇が嘘のような静寂が訪れた。川の水音、切り崩されて不安定になった地面と草木が時折崩れる音、我関せずの鳥達の声以外は、静寂、凍りついた時間が流れる。
薄緑色の光を散らす直刀は、草や木が風に揺れるのと調和したように刀身を揺らめかせている;不動の中にも不安定な感じはしない。むしろ自然と一体化した神聖な力強さが宿っているように見えた。
僅かに気圧されていたのは、蛇の方だった。悠然と薄緑の剣を構えた侍がじりじりと摺り足で距離を詰めると、蛇龍は首だけではなく立てた尾も激しく揺らして威嚇を強める。それで飛べるわけではないが翼も広げて、もとより巨大な体をより大きく見せようとしている。
一見すれば、鎧武者に勝ち目があるようには思えなかった。奇妙な輝きを放つ刃がいかほどの業物かはわからないが、刀身の長さを考えても蛇身に深手を負わせるには役不足に思える。一方で龍の方は体のどこを当てても侍にとっては致命傷になりかねないサイズ差があった。着込んだ大鎧がいかに上等なものであったとしても、純粋な衝突エネルギーを吸収できるものではなさそうに見える。
固唾をのんで二者の対峙を見守る二人、先に仕掛けたのは、蛇の方だった。
蓮子達を追いながら襲った距離感ではない;尾で薙げば水平方向に逃げ場はなく、不気味な顎は人の跳躍力ではとても逃れられない高さから襲いかかる、蛇の長体が十分にリーチとして生きてしまう距離で、到底俊敏な動きなどできそうにない大鎧の武者は真正面で蛇龍と対峙している。
先に仕掛けた悪神龍の口撃を武士は、しかし重厚な大鎧をまとっているとはとても思えない軽快な跳躍で避ける。岩がちな地面を打つ振動と岩を砕く破砕音が響くが、大きさとは裏腹に龍の動きもまるでCGアニメーションのように速い。口撃が躱された次の瞬間には既にその首は元の場所に戻っており、彼の立っていた場所に円形の穴が突然現れたように穿ち抜かれる。
あの亡霊武者、何者?
この流れでヨシツネ以外に想像出来ないわよ。他の誰かがここで化けて出たってそんなの知ったこっちゃない。あれが鵺であっちが源頼政として、私達の生死に関係ある?
……確かに、なんでいきなり戦ってるかなんてどうでもいいか。助かるなら神も仏も関係ないわよね
蛇の連撃は一向にやまない。矢継ぎ早に繰り出される噛みつき、尾の薙ぎ払い。石と川水の混じった雨が降り、木は薙ぎ倒されて、辺りはみるみる〝開拓〟されていく。龍がのたうつ度に川の流れも姿を変えた。
川の氾濫さえ彷彿とさせる暴れ龍を、鎧武者は人の肉体とは思えない見事な跳躍、転身、バク転で回避し距離を取り、一方で隙を見計らい疾走して距離を詰めては、薄緑の光を宿す刀で攻撃を試みる。
蛇の方も巧みなもので、尾や翼での牽制を組み入れて防ぎ、剣撃も未だ蛇身に届いてはいない。蛇は人の身ほどもある岩石を尾で掴んで侍に向けて放り付けたりもするが、侍はそれを緑の刀で切り払う。―岩がまるで薄布のように切り裂かれていた。
次々に地面に穿たれる穴、飛び交う石礫、あの巨体でそれだけの手数が繰り出せるのがもはや目を疑うのだが、一撃も喰らわない侍の運動性能も驚異的だ。それにあの綺妙な緑に輝く刀。
……モンハンじゃん
表現が雑すぎる
やがて、大きく身を捩った蛇の若干無理な連撃を躱した鎧武者がその隙を見逃さず、蛇体でもあまり動きのない太い腹の辺りへ潜り込んだ。岩を噛む驚異的な蛇腹と木や岩を受けても物ともしない分厚い鱗が守っているが、侍はその腹へ薄緑に輝くふくら枯れた鋒を突き立てる。反りのない直線的な刀身は刺突に向いているのだろうか、それにしても驚異的な切れ味は、傍目から見ている蓮子やメリーにも明らかだった;まるで熱した針金をバターに突き刺すように、ぬるりと深くまで突き刺さったのだ。
蛇が金属同士を擦り合わせるような甲高く不快な叫びを上げて身を跳ねさせた。突き刺した刀をすぐに抜き去った鎧武者を尾で追い払うが、鎧武者は尾撃を危なげなく躱す。
焼けるように穴の空いた蛇の腹からは、ドロドロした泥炭のようなものが吹き出している。血なのかもしれないが、それよりも瘴気を纏った沼地の泥のように見える。溢れ出した黒いゲル状のものはサラサラと流れるのではなく、厚みを保つように重なってその場に残り、ゆっくり時間をかけて形を失い、粘り気を残したまま川の水に溶けて流れていく。辺には腐敗臭と硫化水素を混ぜたような強烈な悪臭が立ち込めた。
先の刺突が龍にとって深手であったのかどうかはわからないが、その攻撃はより苛烈になった。絶え間ない攻撃を舟から舟へ飛び移るような軽快な身捌きで躱し続ける侍。尾と顎だけだった攻め手に体全体で轢き殺そうとする動きも加わって鎧武者を一層激しく追い詰めるが、一方で攻撃一つ一つが大味になり隙が大きくなる。大きく重い鎧ごと侍を噛み潰そうとする気味の悪い顎は、木の根を鋭く抉り取り岩床をより強く地面を穿つ。一撃一撃に強大な力がこもっているのかひと噛みごとに地面を深くまで刳り貫くが、頭を上げて首をもたげ直すのに時間がかかるようになっていた―圧倒的な巨体とパワーから遂に引き出したアドバンテージをヨシツネ(仮)は見逃さない。
その瞬間は、唐突だった。
この状況をなんとか脱し生き延びようと二人は、希望的観測から最悪の状況まで凡そ考えうる可能性は全て想像に描き出していたつもりだったが、それでも目の前に突如現れた光景をにわかに信じられずに間の抜けた声をハモらせてしまう。
一撃を繰り出そうと顎を開き持ち上げた頭が、前触れもなく突然地面に落下した。鎌首をもたげた姿勢のまま、頭部を失った蛇体が硬直したように停止する。
侍の方に目をやると、薄緑に光を放つ直刀が、まさに鞘に収められているところだった。その動作を見て想像する限りでは、ヨシツネ(仮)が直刀で蛇の首を落とした、というとところなのだろう。だが蓮子にもメリーにも、恐らくは斬られた蛇龍も、その動作を認識できていなかった。「見事な剣捌き」といえば聞こえはいいが、速過ぎてアニメや映画の映像表現にしか見えない。渓谷をなす崖壁には、一文字に走る刀痕が煙を上げて赤熱していた。
ごとん、と音を立てて石畳の上に落下した気味の悪い蛇の頭部は、赫々と蛇やいた眼を未だにギラつかせて鎧武者の方へ視線を向けている。頭上で斜切になった首の断面から、どっと黒いゲルが噴出し地面に盛り上がった。一方の蛇は、体の体積を吐き出していくように潰れ、最後には皮だけがぺたんと黒い泥の上に萎れた。頭部は形を保っているが、もはや眼に鎧武者を睨む鋭い光はなく、乾いた血の色に濁っていた。
えっと……やっつけた、のよね
たぶん
あまりな急展開に理解が追いつかない二人。泥濘した黒い泥からの悪臭は鼻が捩じ切れそうだし、気を抜けば今すぐにでも胃の中のものを撒き散らしそうだったが、今はそれどころではない。
蛇の黒い体液は川の流れに薄め流され、地面に染み込んで消える。残されていた蛇の皮も頭も、遅れて形を失ってこの山河のどこかに還っていった。
今度は私達、なんてこと、ないよね……?
警戒心を剥き出しにして洞窟の方へと一歩後ずさるメリーは始原魔法のトリガに意識の指をかけている。メリーの魔法発動が阻止されぬよう庇う形で、蓮子がわずかにその前に出、攻撃の意思など無いことを示すように鎧武者に向かって跪いてみせた。メリーも同じようにして膝をつく。
た、助けてくださって、ありがとうございます
ヨシツネ(仮)が源義経の亡霊であるのか、あるいは人違いなのかはわからない。言葉さえ通じているのか怪しい。こここの状況に至っては生殺与奪が蛇からこの亡霊武者に移動しただけだ。
あの、私達、サマイクㇽとニッネカムイ……源義経と水神のことを調べにきていて……
隠さなければいけないことでも、口にして拙いことでもない;蓮子が正直に「ニンゲンごときが」ここにいた理由を告白する。それが聞こえいていたのかいないのか、武者はゆっくり二人の方へ向き直った。それどころではなかったのだ、二人共まともにこの侍の顔を見るのは今が初めてだった。そして驚く。重厚な兜の下に覗くその顔つきはまさに人間そのものであり、先に聞いた声にふさわしく若々しく蓮子やメリーとさほど年代の変わらなそうな青年だったのだ。美形、というほどではないが、むさ苦しい男でもない。ただ、「まだ若い男性」という印象が強かった。
えっと、本当に、源義経?
恐る恐る口にした蓮子だが、ヨシツネ(仮)はなにか答えるでもなく目を閉じる。「あ」メリーがその様子に気づいた、彼の姿は一呼吸ごとに薄れて消えていくのだ。天に昇るでも地に溶けるでもなく、すうっと空気に薄らぐように幽いで、彼はいよいよ何も答えないまま姿を消してしまった。
えっ
と
二人は目を合わせたり、もう周囲を見回したり、そうしてからまた目を合わせたりしながら、しばらくの時間をまごつく過ごす。そこでようやく、一連の出来事が全て流されて終わったのだ、と状況を飲み込み終えたのだった。
はー!!
しんだわよ、いまのぜったいしんでたわよ!
緊張の糸が切れ脱力しその場に崩れ落ちる二人、そのまま二人して大の字にひっくり返っていた。
こんなの絶対もう懲り懲りなんだけど!?
さっきみたいので死んだら労災出るのかな……
でねーよ!!死体だってあがんないよきっと!!
だよねー、と呆け顔の蓮子。
……助けてもらった、のかな
かもねえ。お土産、持ってかれたけど
メリーのお土産になる筈だった刀はヨシツネ(仮)が持ったまま、彼と一緒に消えてしまった。
あれって、彼の落とし物だったんじゃない?
はぁ?
拾ってくれたお礼に、助けてくれたとか
ナンパにしてはいい方法じゃないわね……
なんでそうなるのよ
一体、何がどうしてこんな事になったのか、何が起こって今どうなっているのか、二人にはまださっぱりわからない。確かなのは、目の前に広がる平地。二人が襲われた不自然な増水に応じるように、その水がはけていく早さも超常現象の類にしか見えなかった。眼前一帯が見事に開拓されたのは、川の大氾濫のせいなのか、それを成敗した武神のおかげなのか。
あれって結局、ほんとに源義経だったのかしら
もーどうでもいいよ、義経北行伝説なんてただのガセだったとしても。さっさと帰ろ
あなたが言い出したんでしょう……それに、そうもいかないみたいよ。ほら、あれ
メリーが指差す先は、さっきまでウナギドラゴンがとぐろを巻いていた辺り。そこに。
伊弉諾物質放射体だ
ほっとけないでしょ。封緘処理して、運ぼ
もーいーよこれみたくないよー
蓮子がここ来るって言い出したんでしょ、最後まで面倒見てよ
何もかもあの夢女のせいだー!
はいはい
あの刀が結界だったったんじゃない?
そうかもね。だったらあの刀の正体は何?
薄緑
……なるほどね。でも当時のアイヌ文化には鉄器の生産能力がない、全ての金属器は異界から入手する必要があったのよ:琉球と同じように。薄緑ほどの刀、内地でも貴重品だったでしょうに、製鉄技術のないアイヌにはそれを手にする術が
全くそうだわ。日本の神剣と同じ経緯を辿ってる
腹の底を揺らすような細かくも力強い振動、耳をふるわせ続ける音;二人は蓮子の内燃機関車で帰途についていた。熱と力が完全に制御されているという点ではモーター車も同じなのに、荒ぶる力と熱を皮下に感じるのがいい;蓮子の車って馬と似ているのかな、とメリーは感じていた。
乗られて暴れる蓮子を大人しくさせるほうが楽しいけどね
ガリガリと、耳と腹を削るような振動と音を撒き散らしながら、命からがら帰途につく車の窓に頬杖をついて、ニンゲンの手から動植物に取り戻されようとしているゴーストタウンを眺めるメリー。
制御したと思いこんでいるニンゲン、その水面下で虎視眈々と逆襲の時を狙う自然は今まさに力を溜めているのか、はたまたその必要もなくただ戯れに人間にテリトリを渡して自滅の無様を眺めているのか。
なんせこの車のトランクには今まさにその夢現を結わうエネルギーの源泉かも知れない奇妙な物体を乗っけているのだ。結界は確かに存在するし、結界を見える眼も存在するし、それを濫用する「魔法」も存在するが、だがその原因も由来もわからない。夢幻の世界は確かに存在するらしいが、それらの世界とこの世界が結界されている―この隔離は断絶や並行ではなく限定的な接続であり、意図的に交点を設けているように思える―理由もわからない。
メリーのセンチメンタリズムをよそに蓮子はたった先自分の喉元に刃を向けた旧神や神霊とその背景の分析いや、妄想に忙しいようだった。
っふふ
な、なによ急に
何も。蓮子相変わらずね、死にかけたってのに
はあ?メリーだって楽しそうにしてるじゃん
だからよ
?メリーのそういうとこよくわかんない。私バカだからわかるように言ってくんないと
私もわからないわよ
だからそういうところー!
理性と別に、おなかのそこで、大好きなのだ。
だからこんな、荒唐無稽な話にも乗ってしまう。
錆か……アイヌに製鉄技術がないのは確かにその通りだけど、外の世界から手に入れた金属剣に対しても研がない例があるらしいわ、対人用の武器としては使わない場合。錆びさせることで悪霊神への威力が増したり輝きで悪霊神に見つかる可能性が下がると云われてて、儀礼用の刀は錆びたまま用いられるの
剣を研がないって?元から意図的に錆を育てていたってこと?
錆びている、つまり薄緑色であること自体に、意味があったんだわ。あれはハンガンカムイ義経の持つ、新生〝薄緑〟なのよ。
〝薄緑〟って、森を掻き分けて出てきたからそう名付けただけって話だったけど
蝦夷地に逃げた義経がアイヌの集落にまで辿り着いた時、積雪の真冬であればそうでなかったでしょう。あの剣、どこで拾ったっけ
源義経は、薄緑の二本目を手に入れたってこと?落ち延びた北海道で?
そもそも薄緑なんて今どき各地に何本もあるわ。今回新しく見つかったのは、青生生魂製の薄緑。
新しく見つかっただなんて、と呆れたように吐いたメリー。だが彼女には実際に、結界が見えてしまっているのだ。蓮子も同じ、彼女のもう一つの眼に見えている時空は、メリーに見えている時計や地図とは違う姿をしているのかも知れない。仮にそれを言葉に直して伝えられたとしても、見えた〝異形〟そのものを相手に見せることは出来ない。感情と似ているな、と車窓の外に向かって諦めの笑みを投げ捨てる。
いきなりあっちのほうに飛んでったわね。いいわ、その妄想を、聞こうじゃない
私は元々、緋々色金は質の低い銅ニッケル合金のことだと考えているわ。例えば白銅とか。銅ニッケル合金は鉄より重い:錆びにくい:光沢質で輝いている:磁化しない。けれど、鉄よりも遥かに錆びにくいとはいえ、質が悪ければ銅部分が緑に錆びる。あるいは何らかのニッケル化合物を生じて青くなった可能性もゼロではないわ。見たでしょう、青銅の緑青と違って、白っぽい地金に緑色が生していたのを。緋々色金は青色に錆びて青生生魂と呼ばれて区別されていたし、白銅はその性質から鉄や青銅やとも区別されたのよ。
銅とニッケルの合金は、鉄器ではない〝もうひとつの可能性〟だったかも知れない。しかし、地球の重さの三分の一は鉄と言われるくらいに、鉄は普遍的な鉱物だ。その一方で、太陽系全体に存在する鉄は、総質量の0.003%程度と言われていて、地球は相当に特殊な星だと言える;地球は水の星ではなく鉄の星なのだ。鉄が文化文明の主軸になることは星の運命として必然で、その後今のように銅がその独自の立場を獲得し直すには、鉄器文明が世界を席巻してからまた更に時間がかかることになる。文明の進んだ異星人がいたら、きっと鉄の地球について面白い記述を残すだろうなとロマンを膨らませていた。
資源不足が招く戦争あるいは敗戦については、日本で有名なSFロボットアニメでも描かれている。地球は資源が豊富である、というふんわりとした設定は、鉄について言えばまさにその通りだ。では日本は?同じ地球でも鉄どころか地下資源全体に乏しい。ニッケルについてもクロムについても例に漏れず、特殊な金属は外国から流入したという観点をどうしても排除できない。そんな資源貧国が黄金の国だなんて呼ばれていたのは皮肉なものだ。
蓮子がふう、と肩を竦めるように息をついてハンドルを握り直したところで今度は、メリーが、バトンを受け取った走者のように想像を続ける。
二人は趣味を同じくし同じフィールドワークを重ねる関係だが知識の果てまで一緒というわけではない。互いに「こいつオタクだから」と指さし合うように、その幅は大半重なりつつも微妙に違う。
―だとしたら、古代出雲製の緋々色金の素となったニッケルもとい白銅は、国産じゃないんだわ:大陸由来よ。蓮子はさっき言ったじゃない:外の世界から手に入れる必要があるって。そういうことよ。
大陸由来ね、可能性としてはわかるけど
「西暦300年代、日本では古墳時代から飛鳥時代の頃つまり大和政権が正統性を証明する必要が出てきた時代。同時代、中国の『華陽国史』には白銅を多く生産する地域があるという記述があるわ」 「『華陽国史』って偽書って話じゃなかった?」ところが近年、三星堆遺跡から青銅縦目仮面が発見されてからは評価が見直されている。あの記述は本当だろうって
あー。あの変な目玉が飛び出してる仮面か。じゃあその頃、白銅が扱われていたのは本当らしいのね
白銅はこの頃から表舞台に出現して、以降、中国大陸では相当量の白銅が利用されていくことになる。当時はまだ貴重品には変わりなかっただろうけど、流通する程度にはあった。この初期の白銅の一部が日本に巡ってきたら
鏡と同じく、宝物扱いだ
ビンゴ、と蓮子を指差すメリー。糸が束ねられ紐が組み上がる、世界が結わえられていく。他の誰にも見えていなくても構わない、二人だけの世界観。
そもそも日本独自の国産宝物は勾玉だけ;鏡も剣も元は舶来品。飛鳥時代からは明確に白銅鏡と記される鏡も姿を見せるわ。三種の神器なんて天皇家の正統性のために作られた御伽噺かも知れな―
すとっぷすとっぷ!そこまで言ってないわ、私は日本のエンペラーまで否定するつもりはないよ
蓮子の疾走っぷりを、メリーは一旦は制止する。だが一方で思わぬ方向から補強し始めた。
でも蓮子が言った通り、水無神社の大穴牟遅はいずれ水神になる。そして、義経もいずれ水神になるわ。これって、神の収斂進化よ。
ヨシツネが水神って……流石に突飛ね
それはそうなんだけれどと、わずかに眉を顰め疑いの晴れない険しさの残る表情で続けるメリー。こうして乗っかってきたときには、必ず核心を突いている;蓮子には確信があった。
草薙剣は緋々色金剣ってことよね。同様に神宝として伝わる〝神剣〟は、他にも幾つかある。天羽々斬、布都御魂、十拳剣、それに、生太刀。もし草薙剣が白銅剣でその輝き故に神宝だったなら、他の神剣の内幾つかも、青銅剣でも鉄剣でもなく同様に白銅剣だったんじゃないかしら。水無神社にまつわるエピソード、覚えている?草薙剣の疎開
ええ。どうして伊勢や熱田、鹿島や石上ではなかったのかしらね……え、そこつなげる?
出雲の主神大穴牟遅は、きっと草薙剣と同じような緋々色金の剣を携えていた。草薙剣と同じく素戔嗚の持ち物で大国主が手にした剣といえば、生太刀。草薙剣も生太刀も、大陸からはるばる古代出雲に渡来した白銅製品だった。本当は同じものなのかも
実家に帰る、くらいの疎開だったってこと?
神話的な根源で、強い関連性があるってことが関係者の間では密かに伝えられていたのかも。大穴牟遅と水内神の間に何か強い関連があったと、中央は認識していたのよ。同時に、それは機密情報であって外部には真意が知られていないという自信があったから、疎開としても機能すると思った
外部……アメリカ軍にも
そうかもね、とメリーは頷く。メリーの推理を聞いて蓮子はついでにひとつ思い出す。
生太刀は美具久留御魂神社の御神体の一つよ:さっき言った、大穴牟遅を水神とみなしている神社。そして水無神社の大穴牟遅は、現在進行系で水神へと変化しつつある。
義経も同じ変化を経ている;神の平行進化よ。あの亡霊が私達を助けてくれたときだって、あの大蛇を討伐した姿はまるで暴れ川を御すみたいだった、川の悪神を懲らしめるオキクㇽミは源義経だったのよ。義経北行伝説とアイヌと出雲大社教が結界したわよ
各所からお叱りを受けそう、女神転生のスピンアウトでも作ったらどう?でもそれって面白いわ、見事に一本の紐に繋がったわね!
なぁんて荒唐無稽、でもとっても愉快だわ!
クーラーの効いていないガソリン車の中が、黄色い笑い声で満たされた;この旅路の往路のごく初めの以来それはしばらくぶりのことだ。
わかりづらい話だわ、でもそれが眠り姫の暗黙の要求なのね。伊弉諾物質放射体との関係も含めて
まどろっこしい……もっと直接言ってくれって
仕方ないわよ、相手は寝てるんだから。私達はドリームランドのインターフェイス。せいぜいその役割を演じましょう?
夕張川新水路工事、これだわ
なんか新しそうだけど、義経関係あるの?
ほら
南幌、神社?
蓮子が「ミツケタワ、ミツケタワ」と怪しい目つきで呟きはじめたので、それとなく関係しそうな会話を避けていたメリーだったが、いよいよ明確に話を振られてしまった。結果、そのまま札幌への帰途を最短で行く予定だったところを、妙な遠回りをしてやってきたのが、この南幌神社だ。
北海道平取町の義経神社は源義経や関連する歴史が好きな人には有名だが、メリーが見せられたwwwの記事にはもう一つの『義経』が記載されていた。南幌神社の方はといえばあまり知られていない。メリーも首を傾げるばかりだ。
正直……初めて聞いたけど。平取じゃないのね
南幌神社はかつては幌向神社であった。幌向は現在の岩見沢の一部から江別の一部の非常に広い地域を指していたが、開拓が進むに連れて、幌向は豊幌そして南幌へと呼び名が変わりそのまま南幌神社となった、という由来なのだとか。その間に色々な祠や村社を習合していった結果、今の祭神は天照大神、八幡大神、伊弥彦大神、白鳥大神の四柱だそう。
開拓事業には精神的な拠り所が必要となる。天照大神は三重から、八幡様は宮城から、弥彦様は新潟からの開拓者が運んだ祭神だった。そして倭健命はこの地の開拓神として祀られ、合祀された姿がここにある。
武神とか英雄神って、地方征服と同時に文化と技術の伝播に関わっているからなのかしら、開拓神にもなりやすいよね。倭健命にせよ神武天皇にせよ、征服地で農地整備したり治水工事を広めたから。もしかしたら新しい製鉄技術や食文化も
現在確認できるアイヌ文化には、和人がもたらした技術が強く影響しているわ。船や刀、織物にお酒も和人との交流で古代の姿から一気に様変わりしたんだそうよ。最たる例が鉄器だったでしょうね。だから外から来た英雄義経=オキクㇽミなんて合一が広く見られるんじゃないかしら。もしかしたらこうした融和的な同化政策が、日本本土での政権統一の姿を残しているものなのかも
ではここでこの南幌神社の由来をご覧ください
まるでガイドか何かのように振る舞う蓮子。
有名な平取の義経神社から分霊された祈念碑を、更に移動したものが、この南幌神社にあるのよ。わざわざ平取から分霊された理由が、ほらここ
〝開発事業に携わる人々は心の拠り所として信仰を求めた。そのため、平取神社から開拓の神と伝わる源義経の分霊を請い〟……ふうん
開発事業と書かれているのは「夕張川新水路」を指すようだ。北海道の開拓の歴史は寒さと雪との戦いであると同時に石狩川水系の治水の歴史と言っても過言ではない。百年にも及ぶ石狩川との死闘の中にある治水事業の一つがこの夕張川新水路とのことだった。開拓当時の石狩水系はとにかく暴れ川で、ちょっと雨が降ったくらいで大洪水を起こすと開拓者を苦しめ続けており、その治水事業でも事故で殉職者が出る手に負えない川だった。百年も続く血の滲む開拓事業の甲斐あって、今はもうおとなしい。
この夕張川新水路事業の中で精神的な拠り所として祀られたのが、平取神社から分霊を受けた源義経だったというのだ。
平取町の義経神社は、アイヌの英雄と合一化された広範な文化神・英雄神ハンガンカムイとして源義経を祀っているわ。でも新水路工事に際して分霊されたときには明確に治水工事の守護神、穏やかな川を祈る神……水神だった
武士なのに、治水のシンボルだなんて
ちょっと可哀相だけれど……この通り倭健命だって英雄神であると同時に開拓神でもあるんだもの
倭健命と、神格は完全に一緒ね……。そしてここでは義経は特に治水の神として招かれたのね。南幌神社の義経は、川の、水神だ。
「間違いないわね、『義経は水神』よ」断定はちょっとなぁ
と懐疑的になメリーを、蓮子はしたり顔で見る。
それだけじゃないのよぅ
と、蓮子は南幌神社の由来を指さして、メリーに読むように促した。
ええと〝明治三十三年岐阜県より入殖した開拓団の守護として各開拓地に創建されていた祠を、開拓の進む当時の幌向村の守護である鎮守として合祀し幌向神社と称し〟……岐阜
そう、飛騨から来た人達なのよ。弥彦様を祀っていた人達も新潟からの入植者だった。飛騨、越、つまり水内の水脈がここまで通ったってことなのよ、これって運命的よね〜❤
自分の陰謀論で思った通りの図を描ききった蓮子はまるで、恋人のことでも言うようにニコニコしながら体をくねらせている。
最初は入植してきた人間で、万能のヒーローとして神格化され、やがて水神と同一する。水無神社の大穴牟遅にそっくり。これが〝神の収斂進化〟?
ええ。神なんて所詮は人の畏れと望みの記号よ。ヨシツネであっても、あんなバケモノみたいな蛇であっても、ね。土地や起源や時間を分かつとも幾つかの類型に収斂していくことに不思議はないわ。
大穴牟遅は、根の国から妻の須勢理毘売と生太刀・生弓矢・天詔琴の三器を携えて黄泉帰った。そのことが大穴牟遅を真に大国主としたと言われているし……義経も一度は黄泉の国に行って、ここで復活したのかもしれないわね;真に、神として。
ここで静御前とも再会できればよかったのにね
まあ、アイヌの伝承に残る義経には現地妻が沢山いたらしいけど。だいたい最後女が身投げしてる
クソ野郎じゃん。静かに来世を待つ女に報いるくらいの甲斐性見せろよ
大丈夫、そもそも須勢理毘売も第二夫人だから
ああ、男ってサイテーだわ。
南幌神社の由緒書を見て義経は神に違いないと言いながらも、その女誑しっぷりにブーイングを垂れる少女達。待ちくたびれた様子の内燃機関車に「おまたせおまたせ」と声をかけて乗り込む。無駄に長く感じられたこの旅もいよいよ佳境、〆はやはり、現地飯だ。ここまでこれば、第三千歳空港はもうすぐだ。
とにかく。源義経は、確かに北海道まできたのね。〝嗚呼ひたすらに異郷の地に転びて落ちる〟かあ
伝説は伝説のまま、だけれどね。だからこそ、私達はここへ来たのだわ。いや、呼ばれたのかも
ここにも人の世と神の世界の結界あり、ね
時代が下ったら、私と蓮子が一つの存在として認識されたりするのかな
この記R憶はあのキチガイ女の夢遊よ?この世界から漏出したりはしないわ
でもさあ、神話……いいえたとえ妖怪談でも、私と蓮子がひとつなんて
やめてよ。湯殿山の件で懲りたわ、あいつもきっとそうよ。自身が神と一つになろうとして、こっぴどくフられたのだから。あんな妄想話、夢にでも描くべきではないのよ
ロマン感じるけどな、神と合一を願う癲狂の女
不遜だわ
そぉ?私達も両面宿儺になれたらいいのにい
……バケモノにならないことを祈るわ。
ハンドルを握る蓮子、特別にきれいな指先というわけではないのだけど。ああしてタフでハードなフィールドワークをリードしていく姿。時には紙製の分厚い物理書籍を丁寧にめくっていったりする手とハンドルを豪快に捌く手が一緒というギャップ。荒唐無稽な妄想を語り散らしてはそれを結んで部活動として記録し続ける、変態的な知性嗜好。唯一無二の時空始原魔法を行使する魔法使いの側面(今回は見られなかったけれど)散々な旅だったけれど、結局は彼女に振り回されて付き合い、それを楽しんで、そしてまた感情を深めていく。
車窓のキワに頬杖をついたまま、ちらりと運転中の蓮子を見るメリー。二人で一つになれたらいいのになんて、こっちの気も知らないで、もう運転そのものが楽しそうだ。
……まあ、ロマンチックであるとは思うけどさ